五月の第二日曜日は母の日です。 教会ではお母様方に感謝の気持ちを表すカーネーションをプレゼントしました。 亡き母を想い“僕を産んでくれてありがとう”の一時でした。 神は預言者イザヤを通して “女が自分の乳飲み子を忘れようか”“自分の胎の子をあわれまないだろうか”と母の愛を語ります。 聖書はわが子を大切に養育する慈愛の母の姿を描いています。 しかし悲しい事ですがわが子を虐待、遺棄、 殺害と自分が腹を痛めて産んだ子を慈しみ愛することを忘れてしまう母親たちもいます。 事情はいろいろあるでしょう。 でも母の後ろ姿はわが子のために喜んで犠牲を払う姿ではないでしょうか。 子を忘れる母もいるのです。 神は“女たちが忘れてもこの私はあなたを忘れない”と神ご自身の不変の愛を語ります。 たとい私が親に捨てられ、人々から忘れられ、顧みる人もいない孤立無援になったとしても、 いのちの主なる神は決して私を忘れないでいつまでも愛し守ると言われます。 “このわたしはあなたを忘れない”なんと力強い神のお約束でしょう。 生ける真の神、慈愛の神を本気で信じ頼り祈りながら従ってまいりましょう。 お母さんありがとう。
「母の日」を機に自分の誕生から今日までの日々に思いを馳せ、いのちの不思議と命の本源者なる神の私たちに対する愛の計画を知ること。詩篇139篇は無限の霊なる神を信じる人の神との心のつながり信仰的実存の詩言である。1-12は新生信者の神信仰、即ち全知、全能、遍在の神に対する<あなた>なる神と<私>罪赦され新生信者との個人的な霊的人格的関係が見事に描かれている。神の<不思議>6節は人間の想像の産物ではなく神の啓示による新生者の告白である。神は私を知り、探り極め、読み取る方、未来永劫までことごとく知り尽くしている。神には見えないものや知らないものは何一つない。1-4<神が見ている。知っている>従って、正義と公平な裁きは神の全知と遍在からの確証であるから神には冤罪はない4,5。信者は全知遍在の神の恵みと憐れみにより救われ神を<主よ。あなたは>と呼ぶことを許された1。全知の神がチッポケで罪深い私を隅々まで知り尽くしていてなお赦し愛して下さる、神の恵みの愛に只々感謝のみである14。7-12は神の遍在の告白である。神の御霊の支配は地の果てまで天地万物のすみずみまで神の支配の及ばない所は全くない。それ故何者も神の支配から逃れることはできない7.10。遍在の神を信じる者にとって神は<共におられる>10.神はどこででも助けて下さる方である。詩46:1;23:4.“たとい死の陰の谷“にあっても恐れはない。<あなたが私と共におられるからです>。13-16は人間の命は全能の神の御手によって創造された事13,15。しかも母の胎からの出生から神のもとに迎えられるまで未来永劫のいのちのための神の計画書が出来ている。全てを知り尽くし、 計画通りに<母の胎の中で組み立てられた><骨組みは隠されず><目が胎児を見られ>母の胎の奥深い所で成長の過程もすべてである15。
私の命の誕生は神の永遠の目的にかなった誕生である。<すべてが書き記され私のために造られた日々>とある。母の胎から誕生し、新生、悔改め、信仰、聖化、栄化に至る信仰生涯のすべてが、神の創造の御業としての私の命の誕生は神の周到な計画、予知、監視による15,16。気まぐれや偶然に生まれたのではない。
無神論的生命観は神の創造の秩序に対する挑戦であり、いのちの軽視といのちの操作に見る現代人の霊的堕落を知る。
信者にとって誕生は神の全き恵みであり、感謝とおそれをもって受ける神の命の賜物である。母の日である。母の胎から生まれ神の恵みにり聖書を通して神を知り信じて生きる意味が解った。全知全能遍在の無限の霊なる生ける神を主と仰ぎ<あなた>と呼び<共にいます神>との霊的交流は神の永遠の計画の中での私の今である。測り知りえない神の御心をひたすら崇め、全知全能遍在の主が共にいます信仰に生きることを決意する。いのちの主なる神を誉め讃え、産んで下さった母に心から感謝する。17.18節<私が目覚める時私はなおあなたと共にいます>
1、母ぎみに勝る 友や世にある 生命の春にも 老いの秋にも
優しく労わり いとしみたもう 母ぎみに勝る 友や世にある
2、母ぎみに勝る 友や世にある えまいも涙も ともにわかちて
夕べの祈りに こころをあわす母ぎみに勝る 友や世にある
旧讃美歌437「母ぎみに勝る」
渋谷 敬一 協力牧師・教師
ウクライナ戦争、北朝鮮ミサイル発射、国内は物価高騰、強盗、殺人、放火多発、“神さま、私たちの罪を赦し、助けて下さい。”セイ子姉は入所中。老僕敬一は宣教奉仕を続けています。皆様のご支援ご加祷心から感謝いたします。平安を祈ります。 澁谷敬一
世の中には人間の予想もしない事が起こることがある。 これを、偶然に、思いがけなく、たまたま、などの言で表現している。 私もこれまでの信仰生活の中で沢山の偶然を経験した。 その一つを紹介いたしましょう。私は当時福島にあった神学校で二年間学び、 上京して日本基督神学校で更に三年間の学びをした。 アルバイトをしながらの勉学である。夏休み返上で卒業論文を書いていた8月末、 婚約者セイ子姉の父親が亡くなったとの知らせがあり、取るものもとりあえず矢板に向かった。 葬儀が終わった時に今度は私の実父の危篤の電報が入った。 私はセイ子姉と一緒に矢板駅から下り列車に乗り仙台に向かおうとしていた。 列車が止まり目の前のデッキに上ろうとしたその同じデッキからなんと佐藤国二神学生が降りて来た。 父の危篤の電報で神学校から派遣されて来たのである。 彼は貧学生の私のために着替えやお悔やみを携えて私を追って矢板に来たのだった。 もちろん彼は矢板駅やセイ子姉の家は始めてであったし私たちがどこにいるのか分かるはずもなかった。 ともかくも駅に降りて私を捜そうとしたのである。 彼がデッキから降りるその同じデッキから乗ろうとして私が立っていたのだ。 一つデッキが違えば二人は会う事が出来なかったに違いない。正に偶然である。 佐藤神学生は黒磯駅まで同乗して下さり多くの励ましをいただき感謝の時となった。 思いがけない出会いとなった。62年も前の話である。私はこうした偶然を何度か経験した。 その度に神の摂理の導きとして神の必然的出来事が私の偶然の経験であったことを知った。 偶然もまた神の恵みのみ業である。全知全能にして遍在の神を信じる者の摂理信仰である。 神には偶然はない。すべてのことは必然である。 一羽の雀が地に落ちるのは神の許しがなければ起こらないのでありマタ10:29:人はくじを引くがそのすべての決定は主から来る箴言16:33。 「神の摂理の働きとは神が最も聖く、賢く、力強く、神の全被造物とその全行動を保持し、 統治することである。」(バプテスト教理問答書問13) ハレルヤ 主をほめ讃えます。
聖名を賛美いたします。恵みの広場(ベテル便り)ありがとうございます。 今回も今までもこのお便りを通して内から満たされる大きな恵みの気持ちが与えられています。 信仰は自分の力ではなく神様の恵みであり賜物である事を再確認させられ望みと勇気を戴いております。 ・・・お二人の働きのため祈っています。すべての事を主に委ね祈りの中に。