教会暦では今年のイースター(復活祭)は4月9日の日曜日です。 イエス・キリストが十字架で処刑され墓に葬られて三日目に死人の中から甦られた祝日です。 聖書は、復活されたイエスは弟子達に現われ40日の間数多くの人々にその姿を見せられと記しています。 復活されて8日後にイエスは弟子達が集まっているところに再度現われ、 イエスの復活を信じなかった弟子のトマスに“見ないで信じる者は幸いです。”と諭されました。 神は愛です。 不信仰で罪深い私たち愛しその罪を赦し救うために神の御子イエス様は私たちの身代わりとなって十字架で死の刑罰を受けられました。 イエス様の復活はイエスご自身が神の御子でありその十字架の死は全世界の人々の罪の贖いが完全であったことを示す神の保証でした。 イエス様が私を救うために死に3日目に甦った歴史的事実があるからこそ罪ある人間が義と認められ救われるのです。 この目で見、この手で触れなくとも復活されたイエス様を信じるだけで救われるのです。 イースターエッグで象徴されているように、 卵の殻を破ってひよこが出て来るようにイエス様は死人の中から甦り、信じる人に新しい命、 復活のいのちを与えられます。イエスキリストを信じる人は新しい命に生まれ変わります。 “見ないで信じる人はさいわいです”。信仰は目には見えない霊なる無限の神を信じる事です。 「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」 「神がおられることと、神を求める者には必ず報いて下さる方であることを信じなければならないのです。」(へブル11:1.6)。 復活されたイエスキリストをこの目で見て確かめなくとも、信じるだけで救われます。これが事実に基づく復活信仰の祝福です。見ないで信じる事の祝福をいただきましょう。
私の信仰は大丈夫だろうか。間違いなく救われているのだろうか。 確かな救いに至る信仰を聖書から探ってみましょう。 “ナザレのイエスは十字架で死に三日目に甦り私の罪の贖いを成し遂げて下さった救い主(キリスト)である” と心から信じるならば救われると聖書は約束しています。 信仰による救いです。愛の神の全人類に対する願いは彼らが救われることです。1テモ2:4。 神の面前では全ての人は罪人でありいのちの源である造り主なる神を忘れ、神に逆らい、 罪と欲に従って思いのままに生きています。 従って全ての人間は神の怒りにより滅びの刑罰を受けることが定っています。ヘブル9:27。 人間は罪と咎の支配の下にあって神の前では生ける屍です。 信仰によって救われるとは神との正しい関係に入ること即ち罪が赦され清められ、 義と認めていただき、神との揺るぎない確固とした内なる霊の一体的結合に入らせていただき、 もはや裁かれ滅びることのない命の平安をいただくのです。 これが信仰によって救われる中身です。罪と肉の欲望に生きる事をやめ、 悔改めて神を信じイエスキリストを救い主と崇めて祈り頼り神の喜ばれる生き方をすることが救いの祝福です。 私たちがキリスト信仰を持った時の情況は人さまざまで、 必ずしも福音の内容の全体の知識や納得があって信じた事ではないかもしれません。 悩み、苦しみの中で、イエス様、助けて下さいと叫んでの信仰もあるでしょう。
でも救われた人の信仰にはイエスをキリスト神からの救い主と信じることが共通しています。
このような信仰は自分の力で作り出したものなのでしょうか。
もしそうなら信仰の自己満足はあっても真の救いの確かな保証とはなりません。
「事実、あなたがたはめぐみにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、
神の賜物です。行いによるのではありません。それはだれも誇ることがないためなのです」エペソ2:8,9。
聖書は救いは自分の力や自分の善行でいただくものではなく神からの賜物であると宣言しています。
私たちがイエス様を主と信じて祈るのは神がそのような信仰を与えて下さったことによるのです。
信じるようになった不思議は神の聖霊の働きによって新生し変えられた霊による信仰です。
使徒パウロはコリント教会に宛てた手紙で聖霊によるのでなければ、
だれも「イエスは主です」と言うことはできませんと言明しています。
1コリ12:3。ヨハ16:13; マタ16:16,17。神は恵みにより、
信じる信仰を与えて救って下さいます。救いは神の一方的な恵みの賜物なのです。
神の御霊によって変えられた霊は心底から悔改めてキリストの救いを信じて義とされ1ヨハ1:9,10、
神と堅く結びつき、神を愛し隣人を愛する良き業に励む者に変えられます。
これが神の恵みによる、信仰による救いです。主イエスを信じてまいりましょう。
渋谷 敬一 協力牧師・教師
教会の受難週に続く復活祭礼拝と召天者記念会を終え、主イエス様の救いの恵みに感謝し、お迎えいただくまでお従いしようと新たに決意いたしました。世の中は急激に変化しており、年寄りはついて行くのが大変です。人間が人工頭脳の奴隷になって、神のいない世界となり、命の尊厳は無視され、高い倫理観は風前の灯火となっています。“いざ飲み食いせん。明日死ぬべければなり”の自己の欲望に生きる終末的状況を目にしていているような気がいたします。イエス様は“悔改めて福音を信ぜよ”と今日も訴えておられます。セイ子さんは今月になって足の不自由なこともあり二度も転んでしまい、リハビリのため26日、介護施設に入所しました。遠方から美しいお花のプレゼントが届いたセイ子さんは4月25日が86歳の誕生日でした。感謝です。桜も散り、吾妻山の雪兎も小さくなりました。雨が少ないため露地野菜の育ちは思うようではありません。わが農園の種蒔きはかなり遅れています。ともあれ、福音の種蒔きは“時を得るも得ざるも常に励め”とのおことばです。遅れないようにいつもと励まされます。お祈り感謝いたします。皆様の主にあるご労苦が祝されますように祈ります。 澁谷敬一・セイ子
来る5月5日はこどもの日の祝日ですが、私たち(敬一・セイ子)の結婚記念日でもあります。
セイ子さんと共に福音伝道の恵みに与って61年を過ぎました。
4月はセイ子さんの誕生月でもあり、遠方からお花や贈り物を頂戴しました。
セイ子姉は転んだこともあり歩行困難でリハビリのためやむを得ず介護施設に入所致しました。
入所希望者の多い中ベットを備えて下さった主に感謝しております。
61年間の牧会伝道奉仕を思い出しながら不詳の僕、
失敗だらけの欠けある者を今日まで恵みをもって忍耐強く導いてくだった主イエス様とたくさんの主にある兄姉の祈りと御支援のおかげと心の底から感謝しています。
牧羊教会(須賀川・気仙沼)の後藤正嗣牧師が独りで天に召されたことを大田尾師から知らされました。コロナ禍の中、須賀川礼拝再開を願っておりましたが適いませんでした。
また、長い間の祈りの友であり沖縄の離島伝道、野外の児童伝道に捧げた田場先生、最後は怪我をして寝たきりとなり祈りの言葉も聞き取れないほどになり天に召されました。
また私たちの結婚式に参列され、以来50数年の長い年月、牧師と教会のために捧げ続けて下さった佐藤キミ姉も介護施設で天に召されました。
このように数多くの主にある親愛の仲間の死別は、記念碑や銅像、叙勲などにより名を残すことのない献身者たちの地上生涯です。
信仰をかたく守り通し主に捧げ尽くして世を去った名も知られない多くのクリスチャンたちの生涯は何だったのでしょうか。
わかっています。彼らは天に宝を積みあげた信仰の勇者なのです。ヘブル書11:13節では“これらの人々は信仰の人々として死にました。地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです”しかし彼らは神の備えられた天にある素晴らしい神の都を手にするのです。すでに約束のものを手にした多くの信仰の証人たちが雲のように私たちを取り巻いて、主を堅く信じて生きている人々に“がんばれ“とエールを贈っています。最後まで信仰の競技場を走り通そうではありませんか。(ヘブル11:16,39-12:2)