この聖句は罪を悔改めてイエス様を信じて新しく生まれ変わったエペソの信者たちに使徒パウロが命じた言葉です。お互いを大切にし愛の心を持って赦し合うことが勧められています。互いに赦しあう事が出来たらどんなに幸せでしょうか。しかし現実の人間は”無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしり、悪意と上げれば切りがないほどに相手を痛めつけようとする罪の力を隠し持っています。トルコやシリヤでの大地震には文句のつけようがない自然災害ですが、一年前突然のロシア軍のウクライナ侵攻による災害は人間が作り出した恐ろしい人災です。民間施設都市の破壊、民間人の殺害、子供のロシア領連行、避難民(国内国外)1,300万人、死傷者(兵士民間人)34,000人を数えます。ニュース映像で見る悲惨な情況はことばになりません。世界中の心ある人たちは速やかな戦争終結を願い祈っている事でしょう。どのようなかたちで戦争が終結するのか今のところ予想がつかないようです。愚かで罪深い人間私たちのやることです。その解決は自分の罪を悔改めて赦しを乞い互いに赦しあう事であると聖書は教えています。恨みや仕返しを全部破棄して互いに相手を受け容れる心優しい愛をもって赦しあう事でしょう。それが出来るのはキリストの赦しを戴いた赦しの愛を体験しているからです。地政学的な事は分かりませんが、互いの和平の根柢にあるスピリットは“互いに赦しあう”ことだと思います。ともあれ私たちの願う幸せは”お互いに親切にし、心優しく互いに赦しあう“ことによって手にするものでありましょう。「私たちの罪をお赦し下さい。私たちも私たちに負めのあるものをみな赦します。」(主の祈り)
信仰は”イワシの頭も信心”のように何を信じても信心があれば人は救われる、 助けになると言う訳ですが、聖書は「この方(イエスキリスト)による以外に救いはない。 世界中でこのみ名の他には、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、 人間に与えられていないからです。」〈使徒4:12〉と言明します。 この方とは十字架に付けられ神が死者の中から甦らせたナザレ人イエスキリストのことです。 聖書は神仏の何であれ信心があれば救われるとは教えておりません。 何を信じるのか信仰の対象は何かは救われるためには大変重要のことです。 聖書は“キリストを信じる以外に救いはない”とキリスト信仰による救いの唯一絶対性を主張しています。 信仰は信じる対象が間違いないと信用する或いは信頼する人格的関係ですから、 信じる対象が信用できる間違いないと言える証拠の正しい認識(知識)が前提となります。 へブル書11章6節で信仰の大切さと何をどうのように信じるかを端的に教えています。 「信仰がなくては神に喜ばれない」人が神に受容されるのは信仰によること更に神に繋がる信仰は 「神がおられること」「神は祈りに答えて下さること」を信じます。 「目には見えない無限の霊なる神が生きておられると認識し(存在の事実) 信じる者の求めに報いる或いは答えて下さる(生きて働く、信頼できる)方である事を必ず信じなければならない」と宣言しています。 命を与えられた恵みの神を信じないで、 神を無視し自分の罪の欲のままに生きている人間の終りは神の裁きと滅びです。 聖書は人間は罪のために死に死後裁きを受ける事が定まっている(へブル9:27)と宣言します。 人間の不幸の原因は神から離れ自分の神を作り神のようにふるまう生来の罪の欲にあります。
この罪が赦され神との正しい関係に入らなければなりません。
これが救いであり神が喜ばれることです。救いは自分の努力で手にすることはできません。
神の愛は御子イエスキリストの贖い(全人類の罪の身代わりとなって死の刑罰を受けた)
によって救いの道を備えられました。ヨハネ3:16。
この御子イエスキリストを信じることによって人は救われます。
しかし果たしてイエスキリストは本当に救主として頼れるのでしょうか。
イエスを信じるとはイエスの人格、受肉とその生涯、その教えと御業、
そして十字架と復活と昇天の全体が歴史的事実であり、
倫理的道徳的或いは宗教的神学的要求に対して十全に答える福音の真理を前提としています(聖書を丹念に調べる)。
その意味で“信仰はまず聞くことから始まる”のです。
キリストは罪ある者を愛し、その身代わりとなって死に三日目に甦って贖いを完成しました。
イエスを信じる者は義と認められ永遠の命の救いを与えられます。
救いに至る信仰とは、
このイエスの贖いの十字架と復活の意味をよく理解し間違いがないと納得してイエスを私の救い主として信頼し心に迎え全身全霊をもって主に従う心身のあり方です。
ピリピの牢番人の問い「救われるためには、何をしなければなりませんか。」
の答えは「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます。」です。
渋谷 敬一 協力牧師・教師
新年を迎えて早くも三か月、コロナ感染、ウクライナ戦争、12年前の3・11の大震災と原発事故の大災害の後始末物に思いをはせて、老年なのに忙しくもう三月も終わろうとしています。福島は例年よりも10日も早い桜の開花、異常気象なのでしょうか。懐かしく思い出多い方々から祈りを込めたお便りをいただき、床に臥せている妻セイ子さんとともに読み上げて感謝しています。若い頃、共に教会の奉仕活動をした諸兄姉の事が思い出されます。様々な試練に遭遇している方々の信仰の堅忍のお姿がまぶしく励まされ感謝し祈っております。老人ホームの聖書研究会で定番となった聖歌472番を口ずさみました。“人生の海の嵐に揉まれ来しこの身も・・いと靜けき港に着きわれは今安ろう救い主イエスの手にある身はいとも安し” 皆様の健康と平安を祈っています。
澁谷敬一・セイ子
12年前の3月11日、私は夜の勤務のために床に着いて眠りかけている時、
大きな揺れがあってあわてて外に飛び出しました。屋根の瓦が落ち、割れた地面
から泥水が吹き上げました。
私は立っていることができず、地べたに座りながら、人の意思ではどうにもなら
ない神の力だと身を持って実感したのを今でも鮮明に覚えています。
そして、家内は外出中で、娘にも連絡がつかず、私の職場にも電話は繋がりません
でした。屋根瓦と家の土台、家の一部が損壊し、これからどうしようかと途方にく
れてしまいました。
先日、新聞で大震災の特集記事の中に、津波でお寺を流されたお坊さんの体験談が
載っていました。お寺が流されただけでなく、その方のお父さんと息子さんを亡く
され、いまだに行方が分からないと書いてありました。それだけではなく、その方
の娘さんが、亡くなったお爺さんと弟に会いたいと言って自ら命を断ってしまったと
いうことです。近しい人との突然の別れ、乗り越える術はあるのでしょうかと記者
が訪ねたところ、お坊さんは 「ない」 と即答で返事されたそうです。ならば、
「信仰は支えになるのか?」 の質問に、「申し訳ない、私の場合はそうではなかった」
と答えています。
私は人の命と自由を奪わない限り、信教の自由を尊重いたします。ですが、
他の宗教を調べ、キリスト教と比べてみると、キリスト教のすばらしさと優れていること、
そして実情に合うことが良くわかりました。そんなに聖書の神様が愛の神様であり、
私達を本当に支えていてくださることを知って感動します。
「主は私の全ての罪をキリストの十字架によって買取り、キリストの復活によって新しい
永遠の命を与えてくださいました。
この信仰によって、どんな事があっても立ち向かうことができます。
先程お話したお坊さんの辛いでしょうが全ての人にキリストの福音が届けられますますように
願っています。思いもよらない方法で神は働いてくださり、私の家族は守られ、
家も無事に修復することができました。感謝です。
揺れ動く大地に立ちて、なお十字架は輝けり。
主のみ名を褒め称えます。アーメン