主イエス様の慈愛に満ちた招きのおことばです。誰を招いているのでしょうか。<すべての人>です。あらゆるものに豊かに恵まれ何の問題もなく何の不自由もない人を招いているのではありません(もっともそのような人がいるとは思われませんが)。昔、ソロモン王は知恵や知識や才能をもって懸命に労苦したことを思い返して絶望したとのべています。人の一生は悲しみでありその仕事には悩みがありその心は夜も昼も休まらない。これもまたむなしいと語ります。イエス様はさまざまな病気を癒しあらゆるわずらいを直し飢えた人にはパンを与えました。羊飼いのいない羊のように弱りはてて倒れている群衆がおりました。イエス様は“かわいそうに思われた”とあります。(マタイ9:35-36)。二千年後の今日も、疲れている人、重荷を負っている人、生きる事に絶望している人は後を絶ちません。<私のところに来なさい。わたしがあなた方を休ませてあげます>。イエス様のところに来るなら、その重荷が取り去られ、魂の疲れは癒されて平安が与えられます。イエス様は全世界の人々を救うために世人の罪の身代わりとなって死の刑罰を受けました。そして三日目に死人の中から甦りました。このイエス様を信じ頼る人は救われ魂の疲れや重荷から解放され平安が与えられます。このイエス様による以外に救いはありません。慈愛の主イエス様を信じて祈りましょう。“主イエス様、あなたの愛を信じます。私の罪を赦して救って下さい”と祈りましょう。そうすればあなたは救われます。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒16:31)
「主イエスを信じなさい。
そうすればあなたもあなたの家族も救われます」使徒16:31.
「人は口でイエスを主と告白し、
心で神がイエスを死者の中から甦らせてくださったと信じるなら、
あなたは救われるからです」ロマ10:9,10。
それでは救いを与えるイエスキリストを信じる信仰とはどのようなものでしょうか。
霊感された神のみことば聖書から探ってまいりましょう。
信じると信仰の意味:
社会的存在と言われる人間を結び付け平和で喜びの生活を手にするためには互いに信じる事、
或いは信じ合える関係が大切になります。
“信じる”とはその人と言葉が一体となって間違いがないと認め信用することです。
ですからその人物であれ、様々なニュース、
コマーシャルなどの情報であれ本当かどうかを確かめて信用するわけです。
信じる事は常に真実と表裏の関係にあると言えます。
夫婦、家族、職場、友人・知人の隣人関係の堅持のためにはつまり円滑な社会的生活のためには信じる事、信用が不可欠です。
しかし、ある意味では人間は信用出来ない不真実な社会に生きています。
犬や猫などのペットの方が信じられると言うような世の中、
人を見たら泥棒と思えと身構えなければ生きられない世界、
ロシアのウクライナ侵攻に関するフェークニュースの氾濫にも見られるように、
人間不信の時代が現実のような気がいたします。
人間は神の似姿に造られました。
そして「人(アダム)はひとりでいるのは良くない。
彼のために助け手を造ろう」と言われてアダムのあばら骨はから女(エバ)を造られ二人は一体となりました。
二人は互いに信じ合い助け合う関係でした。
しかしアダムは神の命令に背いて罪を犯し罪の欲に支配され、
不真実な者となり、
互いに相手を疑い信じられない利己的な人間となったのです。
創世3:1-13。信じるには嘘偽りのない真実が不可欠です。
心と言葉が一つになって間違いがないと信じ信じられる人になる、
信用できる真実な生き方をすることが社会生活にとって肝要なわけです。
ところで聖書では人は信じる「信仰」によって救われると語ります。
この「信じる」と深い関係を持つ「信仰」の意味を考えましょう。
信仰は「信じて仰ぐ」と書くわけですが、それは主として宗教上の意味に用いて、
人が絶対的な超越的なものに対してひれ伏して仰ぎ崇拝することを意味し、
一般には神仏を信じ敬いその教えに従う事であると言われています。
しかし人間の信仰する神仏は種々雑多です。
人間の考えで造り出した神や仏が多くおり〈八百万の神〉またその信仰の形態も様々です。
しかし信仰さえあれば何を信じても救われるわけではありません。
聖書は救いに至る信仰はただ一つと主張します。
「この方による以外に救いはない」「主イエスを信じなさい。
そうすればあなたも、あなたの家族もすくわれます」
イエスキリストを信じる信仰が救われる信仰だと宣言し、
主イエスを信じなさいと強く命じているのです。
次回は聖書の教えている「救いに至る信仰」について見てまいりましょう。
渋谷 敬一 協力牧師・教師
コロナ感染禍から3年、ロシアのウクライナ侵攻1年、今またトルコ、
シリヤの大地震と目を覆うような惨事となっています。ただただ祈るばかりです。
ベテルハウスも宣教開始から31年、伝道館も老朽化し屋根と外壁の全面塗装をすることにしました。
私も秋には88歳を迎えます。
様々な制約の中にありますが主がよしとする時まで福音を伝えさせていただきたいと願い祈っております。
暖かい春はすぐそこと雪に覆われた野菜畑を眺めています。
皆様の祈りと御支援に心から感謝いたします。主の祝福を祈っています。
澁谷敬一・セイ子
海のそば、火力発電の高い煙突が見える。
静かな森の隣にある老人ホーム。
あっという間に過ぎた1年半。
コロナ感染予防で外出もなく、
人の出入りも制限されている。
職員達が大切に身の回りの世話をしてくれ、
私は過ぎてきた日々をふり返っている。
これで良かったと思えるのは
なんと幸せなことだろう。
あの人この人ひとつひとつのために祈る。
神様の祝福と、問題の解決を、と祈る。
辛かったこと、悲しかったことの中にも、
神様は共におられ、導いて下さった。
小さい時に神様を知ったこと。
平安に満ちた今の暮しまで。
私は感謝しないではいられない。
神様にかけがえなく愛されている。
もっともっと神様に、喜んで頼っていこう。
天のお父様、イエス様、聖霊様に心から感謝致します。 先生、毎月の福島ベテルハウス便りを送って下さって励まして下さって本当に心からありがとうございます。 主人はめはひらいていますが、起き上がることも、ことばも、まったくできません。 食べることも、みずをのむこともできません。 私が声をかけても、私がだれなのかわからないようすです。 主人は刑務所を出て一年後、私は主人と結婚して40年になりました。 福音を伝える働き、 困っている兄弟姉妹を助ける働きに神様は主人を用いて下さいました。 去年の7月6日に主人は倒れて今の状態が続いていますが、私は良く泣きました。 「すべての事について感謝しなさい」のみことばですが、 神様のみことばを受け入れる事が出来ますようにと祈って来ましたが、 私はきのう(2月13日)から主人のことを神様にこころから感謝することが出来るようになりました。 むすこ、むすめ、嫁二人、孫6人ですが、みんなイエス様の十字架(福音)を受け入れています。 二十歳を過ぎた三人の孫たちは友達に福音を伝えています。 主人はすくわれて天国に行けます。 永遠の命をいただいております。 多くの子供達に福音を伝えて共に祈る働きのために神様は主人を用いて下さいました。 その事を思ひます時、感謝で一杯です。 「主がことごとく私に良くして下さったことについて、 私は何をお返ししましょうか」のみことばのように主人と私のために十字架におかかりになられて、 私と主人に永遠のいのちを与えて下さったイエス様の十字架の愛を人々につたえるはたらきをさせて下さいと、 天のお父様にお祈りしています。 先生のお働き、セイ子姉妹の介護のお働きのためにもお祈りしています。 私たちを励まして下さって心から感謝いたします。 ありがとうございます。(rm,t)