12月、今年もクリスマスがやって来ます。コロナ禍とウクライナ戦争の影響もあって諸物価の値上がりの中、 クリスマス商品特売の宣伝が毎日のように舞い込んできます。 街行く人は感染予防のマスクをして足早に歩いています。 年の暮れでしょうか何となく忙しく感じます。 二千年前、ユダヤのベツレヘムの馬小屋で全世界の救い主である神の御子イエス様がお生まれなりました。 夜番をしていた羊飼いたちは栄光に輝く天使たちの素晴らしい賛美の歌声を聴きました。 “天においては神の栄光が、地においては神の御心にかなう人々に平和があるように”。 “地には平和”は神のみこころであり、また人間の願いでもあります。 幸せは平和な暮らしの中にあります。しかし現実は、紛争・闘争の絶えない世の中です。 ウクライナ戦争、中国や北朝鮮のミサイル発射の脅威、コロナ感染禍、旧統一教会の霊感商法被害や三大臣達不正と更迭、 詐欺、強盗殺人と地に平和は見えません。 原因は人間の罪深い自我欲(肉の欲望)にあると聖書は教えています。 神を無視して利己的に生きる救いようのない人間を罪から救い平和を与えるためにキリストは生まれました。 キリストは十字架で罪の身代わり(罪の贖い)となって死に甦られました。 キリストを信じる人に真の平和を与えられます。 御心にかなう人とはキリストを救い主として信じる人であり、平和を戴き平和を作り出す人です。 主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます。メリー・クリスマス
イエスキリストは弟子達に「全世界に出て行って全ての造られた者に福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16:15) と命令しました。この福音は、口頭伝達だけでなく、客観的に不変不動のものとして聖書に記録され、 他国語に翻訳されて世界中に伝えられてきました。 聖書は全世界のあらゆる人々にいのちを与える神の真理のみことばです。 “あなたのみことばは私の足のともしび、私の道の光です。 ”そのようなわけで、翻訳された多数の聖書は隠れた“世界のベストセラー”と言われるわけです。 他国語に翻訳されたものの中でも、印刷された訳、近代訳(紀元15世紀以降)より前の時代の古代訳(手書きのもの) の古いものはへブル語旧約聖やギリシャ語旧約聖書の原本文を確かめるために重要な手掛かりになります。 旧約聖書の場合はギリシャ語訳(70人訳)ラテン語訳(ブルガータ)アラム語(タルグム)スリヤ語(ぺシッタ)があり、 これらは紀元前3-2世紀頃翻訳され、それらの写本(AD6世紀)が現存しています。 また新約聖書の場合は旧約聖書古代語訳と共に訳されたものでその主なものはラテン語、スリヤ語、 そしてエジプト語のコプト語ながあります。 私たちの日本語訳聖書は幕末から明治初期の時代(1838年―1878年)には宣教師として来日した人たちによる部分訳(聖書全巻ではない)が出版されました。 今日私たちが手にしているのは概ね聖書翻訳委員会訳です。 文語訳元訳(1873年―1887年)文語改訳(新約のみ1917年)、カトリック訳(ラゲ訳新約、バルバロ訳)キリスト新聞社訳、
そして1956年に出版された日本聖書教会の口語訳は文語訳に代わって解り易いので多くの人に読まれました。 その後、新改訳(1970年)、共同訳(1978年)新共同訳(カトリック・プロテスタント)(1988年)、新改訳2017等が翻訳出版されています。その他個人訳、敷衍訳(例、リビングバイブル)が出版されています。そこで、これらの日本語聖書はそれぞれ翻訳上の強調点、翻訳者たちの解釈が関わっているものなので、訳書により相違する部分があります。 教理的に問題となる翻訳箇所もないわけではありません。(例:1サム13:1新改訳と新改訳2017 ;イザヤ53:9 口語訳と新改訳)教会としてあるいは信徒としてどの聖書がいいのか選択しなければなりません。聖書原語を知らない私たちは翻訳された日本語聖書を読むわけで、訳の違いや(脚注に注目する)日本語では言い表せない言葉などもあります。それで他の日本語訳や註解書などを参照することも必要です。私たちの手にする聖書が如何に厳密な敬虔さをもって原典から翻訳されて来たかを知る時に、私たちは信仰生活の誤まりない基準としての聖書をいよいよ丹念にこれを読み、真理を受け止め、聖書の教えに従って生きる事がもとめられています。詩篇19:7-14
2022年も余すところ僅かになりました。清水寺の今年の漢字は「戦」の一字だそうですが、ウクライナ戦争やまず、コロナ禍の第八波、物価高騰、ミサイル発射と軍備拡張、正に物騒な「戦い」の年でした。この一年、沢山の主の良くして下さったことを数え上げ感謝と賛美をもって新年を迎えたいと思います。福地姉の運転で欠かさず礼拝奉仕が出来た事、佐藤兄の編集協力で毎月“ベテル便り”を印刷し、恵みの分かち合いが出来た事、90歳で召天された中村八重子姉の葬儀、諸教会、兄姉との暖かい交流、祈りの支援など素晴らしい一年でした。セイ子姉は老いのため身体が不自由になって来ました(要介護3)。私の方は年相応に元気です。今年は介護見習い?を通して61年間のセイ子さんの祈りと陰の働きを実感し感謝しました。今年も野菜作りを楽しみました。
メリークリスマスそしてハッピーニューイヤー
皆様の祈りと御支援に心から感謝し、主の豊かな祝福がありますように祈ります。
私は、信仰生活50年になりますが、今年の5月上旬、
神様が、ビックリするような私だけの奇跡を見せてくださり、信仰をより深める出来事となりました。
私の孫はスクールバスを使っているので、いつもとおり午後3時の迎えで大通りでバスを待っていました。
大通りから私の家までは、3分から4分くらい、帰り道は2通り。
いつもは近い方の道を通って帰ってきているのですが、
隣家でバーベキューパーティがあり、大層盛り上がっていたので、
別の道を選んで帰ることにしました。私はゆっくり自転車を漕ぎ、孫は歩いていました。
自転車の方が早くなるので、孫に「おばあちゃん角のところで待っているので歩いてきてね」
と言って、先に行き、途中で自転車を降り、どこまで来ているかと孫の方を振り返りました。
するとどうでしょう、孫が2人になってこちらに向かって歩いて来るではありませんか。
一瞬私の目が潰れてしまったのではないかと思い、目を閉じたまま下を向いてしまいました。
しかし、もう一度しっかり確かめなければと心に決め目を開けて見ました。
でもやっぱり孫は2人になりニコニコしながらどんどんこちらに歩いて来るではありませんか。
私は急に怖くなりました。もし、二人が私の近くまで来たらどうしようと思い、
とりあえず落ち着かなければと、「おばあちゃん家の前で待っているからね、先に行ってるから」
と叫んで、私は家の前まで帰りました。
そして自分に、落ち着いて、心をしずめて、と言い、二人の孫を待ちました。
もし、二人の孫が家の前まで来たら、冷静に、二人の孫を受け止め、
もう一人の孫に手を差し伸べてみようと思いました。
するとまもなく角を曲がって来るのが見えました。孫は一人で角を曲がって歩いて来ました。
あれはいったい何だったんでしょうか?、私にとって人生で初めての体験でした。
この出来事は、神様が私に絶対教えて置かなければならないと思われて、奇跡を見せてくださったものと思いました。
それは、聖書に書かれている奇跡のことです。
聖書の奇跡を、私は信じています。でも、どうしても信じきれない奇跡があったとき、消極的な受け止め方をしていました。
こんな奇跡もあったのねえ?・・、あんな奇跡もあったのねえ?・・というふうに、
語尾に「ねえ?」 という疑問符を付けていたことです。あんな奇跡もあるんです。こんな奇跡もあるんです。
と言い切ることができませんでした。
この体験を通じ、長い人生を生きてきて、はじめて、疑いなく、
三位一体の神様の奇跡をすべて強く信じることができるようになりました。
旧約聖書に書かれている奇跡も、新約聖書に書かれている奇跡も、すべて真実ですと、証し、
皆様に話すことができます。
信じ切って読む聖書は、あらためて素晴らしいと思いました。
聖書のみ言葉がもっともっと深く響くようになりました。
神様への感謝の心でいっぱいです。
”・・・ものを言うことのないろばが、人間の声でものを言い、この預言者の狂った振舞いをはばんだのです。”
ペテロの手紙2 2章16節