収穫の秋、スポーツの秋、食欲の秋です。けれども、世の中は戦争、紛争、物価高、 そして様々な忌まわしい犯罪が後を絶ちません。 遠い昔、イエス・キリストは人間を汚すもの(即ち人を傷つけ人に害を与える)は何かについて教えられました。 それは今日の私たちも傾聴し悟るべきお言葉です。 イエス様の住む時代のイスラエルの人々は口に入る食物について、衛生的な面からではなく宗教的な面から、 聖い物と汚れた物を区別して食べていました。汚れた物を食べたら汚れた者になると考えていたのです。 しかしイエス様は人間を汚す者は外から口に入る物ではなく、 人から出るもの(人の心から出るもの)が人を汚すのであると教えました。 本当に人を害する者は人間の社会、経済、政治の問題ではなく、もちろんそれもありますが、 根本的には人間の欲深い心から出て来るものが問題であると教えています。 「内側から、すなわち、人の心から出るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、 欺き、好色、妬み、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪は皆内側から出て、人を汚すのです。」 男心(女心?)と秋の空のように不信をもたらす心の奥に住み着く邪悪な罪の欲心から出るものが人を不幸にしていると教えます。 “人の心は何よりも欺きに満ち、芯まで腐っている”(エレミヤ17:9)のです。 平和で幸せな世界はどうしたらできるのですか。罪の奴隷となっている各人の心のきよめ、 生まれ変わりによってつくりだされます。 聖書は罪を赦し清められるために、十字架で命を捨てた救い主イエス様を信じなさいと懇願しています。 罪が赦され心がきよめられるためには神の御前に罪を悔改め告白すること(祈り)が必要です。 「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、 全ての悪から私たちをきよめてくださいます。」(1ヨハ1:9)
神はご自身の啓示されたみこころが末代まで誤りなく伝えられるために預言者・使徒たちを選び神の霊感(聖霊の息吹き)によって啓示の記録(聖書)を残されました。その記録は書かれたその時から神のことば即ち聖書として神の民は受け入れました。1テサ5:27。それが私どもの手にしている聖書です。聖書は父祖たち、預言者たちを通してまた御子によって使徒たちを通して語られた神のみ言葉ですへブル1:1,2。旧約聖書(39巻)はモーセからマラキ、エズラまでの約千年の間に記され、新約聖書はイエスの時代からヨハネの黙示録の書かれた紀元一世紀末までに記されました。即ち1400年の間に約40人の記者によって記録された66巻が聖書です。様々な歴史的な証拠から見ますと聖書に似せた書物は数多く記されました。古代の教会の指導者たちはそれらの幾つかに言及しておりますが聖書として扱う事はありませんでした。 さらに、教会の歴史を見ますと一冊の聖書としてまとめられたのはヨハネ黙示録が書かれてから一世紀近い後代であったようです(イレナイオス)。聖書の66巻の書物のリストはカルタゴ会議(紀元398年)でとり上げられました。教会は信仰と生活の権威ある教理基準として聖書を“カノン”(正典)の書と呼びました(363年ラオデキヤ会議)。歴史的には聖書66巻をカノンとして選別する或いは決議するような会議はなく聖書として用いられてきたものを公に認め宣明する会議でした。 神の聖霊は記された聖書を教会がそのままカノン(正典)として受け入れ保持するように摂理的に導いたと言えるでしょう。
聖書の正典は人間の選択によって正典となったのではありません。黙示録22:18,19。ところで、同じ聖書でも新共同訳には旧約聖書の続編として11冊の書物を入れています。これはローマ・カトリック教会が正典的な書物として他の聖書の書物と同様の権威あるものと見ているものです。これらの書物は旧約と新約時代の間の中間時代に書かれたもので、一般に正典に対して外典と呼ばれています。ローマ・カトリックは1546年トリエント公会議で15冊の外典の中から11冊を選び聖書(正典)としてヘブル語旧約聖書に加える決定をし更に1869-70年のバチカン会議でもこれを追認しました。カトリック教会はその決定の正当性を主張するでしょうが、歴史的にも古代の東西教会の指示しない外典の正典化です。外典のあるものは、参考として役立つものもありますが、その多くは空想的作り話、意図的異端、低い倫理性、教理的逸脱、歴史的地理的不正確、作者に似せた後代の偽典などです。霊感を受けた正典ではありません。正統的教会は今日まで聖書を信じ聖書の教えに聞き従ってきました。それは神の御心だからです。ベレヤの教会は聖書は何と教えているのか、日々聖書を調べました〈使徒17:11〉。正に聖書は神から与えられた唯一の誤りのない信仰と生活の基準・カノンです。“聖書は救いの知識、信仰、および服従のすべてについての唯一の、十全で、確実また誤りない規範である。” (第二ロンドン告白1:1)
渋谷 敬一協力牧師・教師朝夕の寒さが身に浸みる季節となりました。吾妻山の山頂もうっすらと雪化粧です。今月も暖かい兄姉の手助けを受けてセイ子さんと共に礼拝出席、説教奉仕をさせていただきました。感謝です。コロナ禍の中、谷津姉、有坂兄姉が訪ねて下さいました。老老介護の一部を体験しながら神の恵みと諸兄姉とのお交わり御支援に思いを寄せています。主の恵みと平安が皆様の上に豊かにありますように祈っています。
恵み
前のあかしで紹介した衣料店(ふじや)で見つけた英文字入のTシャツ
You sow in tears before you reap joy.「喜びを刈り取る前に涙のうちに種を蒔く」、
バングラデシュで作ったシャツ、文面からバングラデシュの富岡先生の働きかなと推測したのですが、
ネームタグを見たら、キース・ヘリング、ロンドン のデザイナーでした。
ロンドンといえばゴールドヒル バプテストチャーチ、の方々が、ビジネスで地域の人々
をリードして、クリスチャンの集まりを大きく広げている。今はウクライナの人々もたくさん迎え、
自分たちの家にも迎え入れ、オープンスペースにし、問題を抱えている人たちの力になり、
教会の働きの中でコミュニティの責任を果たしています。
最近見つけたもう一枚のTシャツ
大きく THE BEST HEALING IS YOU 一番の癒やしはあなたです。
のわきに、犬のように見えるイラスト、実は小さな文字でできていて、
Whether unhappy or sad , You are always there so encourage me・・・
「楽しい特、幸せな時、悲しい時、どんな時も、 あなたはいつもそこに居て私を励ましてくれる。
だから私は私の日々を親切に過ごすことができる、だからイエスさまは私たちの愛の源です。」
とあります。
こんなことで、衣料店(ふじや)に行って新しいTシャツ見つけるのが楽しみのひとつになりました。
「幸いな人」の中に、形式主義というのが特集されていました。
子供を育てる時、または会社の仕事でもそうですけど、「うまくゆけば褒める、業績が悪ければ残念ですね! となる」すべて結果(成績)で決まる。そのた め、いかにも出来たように嘘をついたりすることにもなる。
でも実際、大切なのは成績ではないんですね!
この形式主義は、聖書の教えに逆行する教えと書いてあって、つまり神様から成果は期待されていない、
期待されているのは、神様とともに歩むこと。 これは、学校で特に教員が陥りやすい誤り、成績が良ければ良い、赤点になればああー、そこを避けて通れば偽善になってしまう。また、学校の校則とか、
違反を見つけるチェック機構をしっかりさせるとか、遅刻何回で反省文を書くようにするとか、神様の意向にそっていないなと、つくづく感じました。
私が小さい頃、配られた小さなトラクトに、「右の手でした良いことは左手に もわからないように」とあったので、道で荷物を持って前を歩いている人に 出会ったら、手伝って持って行かなければ、と思ったり、
小学校の前で紙芝居をしている人を見て、「・・・最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」
とあったので、水一杯持っていったら良いかな?と思ったりしました。やった本人は、満足感に浸れ、祝福があるけれども、これも形式主義、成果主義。自分は他の人よりうまくやった、他の人よりも良いことをしたとする考え。
比べることが良くない、人によってできることが全然違うのだから。
歩ける人歩けない人を比べて、歩ける人が良い、としたら全くそういうことはない。そういう部分
がむずかしいところです。
最近、Y姉の絵画展を開いてくれて、人を招いてくれて、多くの出会いがありました。
Y姉、今は言葉が出なくなったけれども、家族に見守られ世話され、毎週教会に来て幸せ。
神様があたえてくださった恵みと思います。
信仰、家族
振り返ると、20歳でイエス様を信じました。きっかけは姉の誘いからでした。
我が家は仏教なのに、なぜ教会に行かなければいけないのか等、家族からは反対されていました、
姉と姉の友達によって祈られていたことから、教会の門を叩くことになり導かれました。
「信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます。」使徒16:31
今日までいろいろなことがありました。自己中心的な考えで判断して、他の人を責めたり、
高慢になったりすることもありました。「人を裁くな。あなたが裁かれないためである。・・・」マタイ7:1~5
のことばを思いました。とにかく祈ろう。自分の考えや思いからではなく、
祈って主からの助けを頂こうと思うようになりました。主は常に一番近くにいて下さり、
私のような者の祈りを1つ1つその時の状況に応じて御言葉によって、
優しく語りかけて下さっていることを感じながら耐えられました。
イエス様を信じて後悔は一度もありません。かえって、信じていたから、
今の主からの平安があると思います。ただ、ただ恵みによるものと思います。
「あなた方は、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。
それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」 エペソ 2:8。
今は、平安のうちに過ごしています。3人の息子たちも信仰を受け継ぎ、
主人と2人、愛犬「ノア」との生活をしています。
御国に行くまで主に従いつづけていけますようにと祈る日々です。黙示録2:10
白石バプテスト教会主日礼拝説教10/2,9,16,23,30
学び会 :主日礼拝式次第、週報内容(.詩篇交読について)
恵みの広場誌、原稿、印刷、発送 (10/5-10)
エデンの園便り聖句原稿10/26 、 面談、訪問1か所、
秋の伝道礼拝「生きる喜び」 10月23日(白石)
白石バプテスト教会主日礼拝説教11/6,13,20,27
学び会:教会政治、役員の役割 「バプテストの政治、組織と運営、広報活動」
恵みの広場誌、原稿、印刷、発送11/5-10 ,街頭キャロリング賛美練習
10月16日 秋の伝導礼拝、芋煮会
12月4日 クリスマスキャロリング(於:スマイル広場)
12月18日 クリスマス礼拝・祝会