「・・神はご自分の大きな憐れみのゆえに、イエス・キリストが死者の中から 甦られたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つよう にして下さいました。」 (1ペテロ1:3)
8月22日、夏の全国高校野球選手権大会で史上初の「白河越え」を果たした宮城の育英高校にエールを。
そして準決勝で育英に惜しくも敗退した福島聖光学院高等学校のニュースで県内は勿論のこと全国の話題となりました。
甲子園球場に鳴り響く準決勝まで勝ち抜いた勝者聖光学院の栄誉をたたえる三度にわたる校歌の合唱に思いを新たにいたしました。
復活(よみがえり)の主イエスキリストに希望を持って学業に励む未来志向の熱き思いを感じ取りました。
今から60年前に聖光学院を創立した野田新弼先生は、
敗戦のため旧満州でソ連兵による強制労働を強いられた後、
着のみ着のままで母国に引き上げて来たのが76年前でした。
母国に引き上げた者の苦難と絶望の中で先生はイエスキリストを信じて救われました。
神に励まされ、信達の地の若人の救いと幸せを願い、無一物の中で、
懸命な祈りと労苦の中で奇跡的に創設されたのが聖光学院高等学校です。
先生は様々な宗教に救いを求めても得られず、阿武隈川の橋の上から身を投げようとするほどの苦境の只中で、
教会を尋ねキリスト信仰に導かれました。十字架で死に甦られた救い主イエスキリストを信じ、
新しく生まれ変わった新弼先生は、神の約束と神の力を信じて祈り続け、
隣人の幸せのために全生涯を神の御前に捧げました。
復活の主を仰ぐ聖光学院の校歌を聴いて私は若い頃礼拝を共にさせていただいた敬愛する野田新弼先生の信仰と人と なりを再度思い起こし励まされ主に感謝しました。
前回 聖書は誤りのない神の啓示の書〈神のことば〉であるという理由を二つの面から取り上げました。 即ち、聖書がそのように証言している事とその証言が確かである事の外的証明(裏付け)として、 預言とその成就、歴史的考古学的信憑性、万民の認める聖書の教えの真実性や道徳的卓越性、 そして何よりも、神を信じる人間の魂の奥底にある飢え渇きを満たし全き平安を与え生かす聖書を取り上げました。 二千年、三千年も前に書かれた聖書が、 無神論的諸科学の闊歩する現代にもかかわらず今も頼るべき道しるべとして世界中の人に読まれているのは何故でしょうか それは神が全人類を救うために、預言者たちや使徒たちを選び彼らが神ご自身の霊感の導きによってその御旨の啓示を誤りがないように書き記したのが聖書〈神のことば〉だからです。 2テモ3:16で使徒パウロは「聖書はすべて神の霊感によるもの」と語ります。 “霊感”は、降神術の神霊が乗り移って語るようなものや、霊感商法のように霊が物に乗り移る霊感や “ピーンと来た”の気づきなどではありません。 神の霊の働き、神の霊の導きによって聖書が書かれた事を意味しています。 人の命が神の息吹きで生きる者となったように(創世2:7) 聖書も神の霊の息吹きによって神が誤りなきように
著者たちを守り導いて出来上がったのが聖書なのです。 従って、霊感はある意味では聖書の原著者が神であると言えるわけです。 1500年の間で、約40人の聖書記者たちによって書かれた66冊の旧新約聖書 は神の霊感の下に導びかれて書かれた神の誤まりのないみことばなのです。 ですから、聖書が述べていることは、道徳的教えのみならず、同時代の歴史,地理、文化、 哲学そして科学などについても誤りがないと言われるのは、聖書の著者たちが、 それらの諸学に通じ生き字引の様な人間であったからではありません。 事実、聖書記者たちは罪ある弱い間違いを犯す人間でありました。 あらゆる点で聖書は誤りがないのは神の霊感の導きのおかげでした。 更に霊感に関して「聖書はすべて神の霊感による・・」誤りない神のみ言葉は神の霊感により保証されているわけですが、 霊感の及ぶ範囲や文書との関係ではどうなのでしようか。 ある人たちは聖書の教えは正しいが個々の詳細な文言には間違いがあると考えます。 イエスの語ったお言葉とか一部分の霊感を認めます。しかし、“聖書はすべて”とありますから、 例外はなくすべてです。一字一句に神の霊感が行き届いていると考えるのは自然なことです。 思想を正しく伝達するには、正しい意味を持つ言語の選択が重要になります。 聖書が誤りのない神の啓示であるためには霊感は思想だけでなく記録される言語にも及ぶわけです。 書いているすべてその一字一句にまで霊感は働いたと言えましょう。 イエス様はマタ5:18「まことにあなたがたに告げます。天地が滅び失せない限り、 律法の一点一画でも決してすたれることはありません」と聖書の一字一句の文言の権威性を教えられました。 聖書はすべて神の霊感によるのであれば、 人間の信仰と生活の誤まりない権威ある基準は聖書であると言えるわけです。 (Ⅱロンドン信仰告白1:2)聖書は間違いないと信じて熟読してまいりましょう。
渋谷 敬一協力牧師・教師
祈り
毎日同じようなことをして時間が過ぎてゆきます。小さなことに心を動かされて喜んだり
悲しんだり、いろんな感情が 沸き起こっています。
私は今、介護リーダーとして日々の段取りをしています。新しい職場に変ってからは、
以前のようないざこざの絶えない環境にならないように心くばりしてきたつもりでした。
人はどうしても相性とかあるようで、個性の強い人どうしはぶつかりやすいと感じます。
どちらかが、譲ったり、同調したりしてバランをとってゆけばよいのでしょうが、
両方とも一歩も譲らないと、言い合いが余計な引き出しまで開けてしまって、売り言葉に買い言葉、
もうとまらなくなって、場の雰囲気を悪くするばかりでなく、その場に居づらくなった方は出ていってしまったり、
仕事を放棄してしまったりということになります。
まさに、私が席を外したとき、そのような事件が起こってしまいました。
二人がいつかぶつかることは予想できていたので、レクレーションをやる前とか、なにかやる時には、
皆に周知してくださいね、と約束していたのだけれど、何事も思いつきで始まったために、
そのようなトラブルが起こってしまったようです。
ささいな事ですけれど、寛容の精神が足りないような気がしますし、
愛をもって人に接していればそのようなトラブルにはならないのかな、と私は思っています。
この二人の仲違いをほどくために、
私は第一コリント13章4〜7節
「
4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、
6 不正を喜ばずに真理を喜びます。
7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
」
私自身がこの二人に対して寛容の心と愛を持ち、傲慢にならず、怒らず、人のした悪を思わず、
不正を喜ばず、真理のみを説き、仲良くとまではいかなくても、
普通に仕事をしていけるように、説得できるようにお祈りいたしました。
やめるとか、そのような話も出ましたが、立ち上げから一緒にやってきた仲間なので、
がんばっていけるようにと落ち着きました。
二人とも良いところがあることは認めているので、そこを見るようにして、寛容の精神で、
どうしても言いたいことが出来たら、私と一緒に考えて、一息ついてから話してみましょうと言っています。
今後も職場が不満なく過ごしていけるよう神さまの導きをいただきながら、
リーダーとしてみなさんの力になれるよう頑張りたいと思っています。
白石バプテスト教会主日礼拝説教 9/4,11,18,25 証し讃美(ハーモニカ)
学び会:主日礼拝について、式次第、週報内容、時間、
9/5ー10 恵みの広場誌、原稿、印刷、発送
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6月19日 父の日感謝会
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