礼拝           2024・8・4 

 
祈り
賛美聖歌91 ああことばのかぎり(1-4)
交読交読文35 詩篇110篇
主の祈り(下欄掲載)
献金
賛美聖歌646 わざをなしおえて
賛美聖歌424 ただ信ぜよ
聖書朗読ヨハネ 9:13 − 34 
説教渋谷敬一師
説教題『 恵みによる信仰堅持 』(白石バプテスト教会協力牧師・教師)
メモ
9章
13 彼らは、前に盲目であったその人を、パリサイ人たちのところに連れて行った。
14 ところで、イエスが泥を作って彼の目をあけられたのは、安息日であった。
15 こういうわけでもう一度、パリサイ人も彼に、どのようにして見えるようになったかを尋ねた。彼は言った。「あの方が私の目に泥を塗ってくださって、私が洗いました。私はいま見えるのです。」
16 すると、パリサイ人の中のある人々が、「その人は神から出たのではない。安息日を守らないからだ」と言った。しかし、ほかの者は言った。「罪人である者に、どうしてこのようなしるしを行うことができよう。」そして、彼らの間に、分裂が起こった。
17 そこで彼らはもう一度、盲人に言った。「あの人が目をあけてくれたことで、あの人を何だと思っているのか。」彼は言った。「あの方は預言者です。」
18 しかしユダヤ人たちは、目が見えるようになったこの人について、彼が盲目であったが見えるようになったということを信ぜず、ついにその両親を呼び出して、
19 尋ねて言った。「この人はあなたがたの息子で、生まれつき盲目だったとあなたがたが言っている人ですか。それでは、どうしていま見えるのですか。」
20 そこで両親は答えた。「私たちは、これが私たちの息子で、生まれつき盲目だったことを知っています。
21 しかし、どのようにしていま見えるのかは知りません。また、だれがあれの目をあけたのか知りません。あれに聞いてください。あれはもうおとなです。自分のことは自分で話すでしょう。」
22 彼の両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れたからであった。すでにユダヤ人たちは、イエスをキリストであると告白する者があれば、その者を会堂から追放すると決めていたからである。
23 そのために彼の両親は、「あれはもうおとなです。あれに聞いてください」と言ったのである。
24 そこで彼らは、盲目であった人をもう一度呼び出して言った。「神に栄光を帰しなさい。私たちはあの人が罪人であることを知っているのだ。」
25 彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、私は知りません。ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」
26 そこで彼らは言った。「あの人はおまえに何をしたのか。どのようにしてその目をあけたのか。」
27 彼は答えた。「もうお話ししたのですが、あなたがたは聞いてくれませんでした。なぜもう一度聞こうとするのです。あなたがたも、あの方の弟子になりたいのですか。」
28 彼らは彼をののしって言った。「おまえもあの者の弟子だ。しかし私たちはモーセの弟子だ。
29 私たちは、神がモーセにお話しになったことは知っている。しかし、あの者については、どこから来たのか知らないのだ。」
30 彼は答えて言った。「これは、驚きました。あなたがたは、あの方がどこから来られたのか、ご存じないと言う。しかし、あの方は私の目をおあけになったのです。
31 神は、罪人の言うことはお聞きになりません。しかし、だれでも神を敬い、そのみこころを行うなら、神はその人の言うことを聞いてくださると、私たちは知っています。
32 盲目に生まれついた者の目をあけた者があるなどとは、昔から聞いたこともありません。
33 もしあの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできないはずです。」
34 彼らは答えて言った。「おまえは全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか。」そして、彼を外に追い出した。

( ヨハネ9:13-34 )

----------今週のみことば----------
2 わがたましいよ。主をほめたたえよ。 主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
( 詩篇 103:2 )
2 Bless the LORD, O my soul, and forget not all His benefits;
-------------要約----------
     
  • <目的> イエスにより癒された盲人の体験的証しから福音信仰の堅持の大切さを学ぶ。 <序>癒された盲人の癒しの事実の体験的表明と彼を取り巻く人々の反応    本人、知人、両親、ユダヤ人、パリサイ人、盲人の癒しにまつわる人々の態度。    キリストの癒しの事実とその解釈(様々な見方) *光に照らされた人々の霊的反応:二者択一の道(信じて救われるか信じないで滅びるか) <本論>救いの事実の霊的体験の告白と肉的不信仰の基準による事実の拒絶と反攻。   ユダヤ人パリサイ人の執拗な要求と癒された盲人の簡明な体験的証し。 Ⅰ、盲人を取り巻く人々の様々な反応と見解(癒し主はだれか、何か) <安息日であった>4節、ユダヤ人社会の安息日律法との関係から盲人の癒しが罪か? 盲人を取り巻く人々の見方を検討する。彼らの関心事(どのようにして癒されたか)  1)パリサイ人(イエスを罪人とするか、否か)、知人や取り巻きの人々も同様8-9  2)両親 (生れつきの盲人の癒し、イエスの御業と語らない詳細は本人に聞くように)     3)本人(泥による癒しの事実、イエスはだれかは見ていないので知らない12、21) Ⅱ、盲人の信仰:癒しの事実の証言と信仰。(パリサイ人の執拗な追及、イエスを罪人)  1)癒しは事実である(三度の証言:泥をこねて目に塗りシロアムの池で洗った)11,15  2)イエスが癒し主である(予言者17、弟子となるほど偉い方、神から出た方)   3)勇気ある信仰 事実に基づいての証言、三度の答え5,17,24 と反論 27 a,盲目が癒された<ただ一つのこと今は見える事> b,イエスは預言者、弟子となるか17,27 c, 神から出た方34,d,全能の力33 e,罪人でない(神に受容された善人 )31 Ⅲ  、盲人に対するユダヤ人の反応答え:<彼を外に追い出した> 34節 1) 罪の中に生まれた罪人である。 2)傲慢不遜な態度  3)暴力で追い出す。 *自分の欲(自信、地位や名誉の誇り)が傷つけられることを赦さないパリサイ的自己保身  イエスは安息日の律法を破る罪人である。それ故光の御業も神からのもとは認めない。 自己省察のない悔い改めない頑くなな罪の性質は相手に対する憎しみからの暴力となる。 ロマ3:13-18 <結び> 癒された盲人の信仰に倣う:救いの事実の固執と堅忍 9:25,30  救いの確信を投げ捨てない、勇気ある信仰の証しを続ける。主の救いの真実を忘れない。             へブル10:35,39 詩篇 103:2
     

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賛美聖歌465 よびとのとがのために
祝祷
報告

hana


【報告・連絡】:
    *本日の礼拝説教は、渋谷敬一師が奉仕してくださいます。






 私たちは私たちの信仰を次のように告白します。

《主の祈り》
天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。
御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。
私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。私たちの負い目をお赦しください。
私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦しました。
私たちを試みに合わせないで、悪からお救いください。
国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン
 
 

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