礼拝           2016・7・24

 
祈り
賛美聖歌425 つみおもにをのぞくは
聖歌404 イエスはなれをよびたもう
主の祈り(下欄掲載)
献金
特別賛美大畠 師
賛美聖歌604 のぞみも消えゆくまでに
聖書朗読マルコ8:34ー9:1
説教渋谷敬一師
説教題『 神の御国にあずかる者 』(元 仙台バプテスト聖書神学校校長)
メモ

 それからイエスは群集を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、 自分を捨て自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。  いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者はそれを救うのです、 人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。自分のいのちを買い戻すために、 人はいったい何を差し出すことができるでしょう。
このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて 聖なる御使いたちとともに来るときには、そのような人のことを恥じます。」(マルコ8:34ー38)

イエスは彼らに言われた。「まことにあなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、神の国が力を持って 到来しているのを見るまでは、決して死を味わわない者がいます。(マルコ9:1)
        
  • 自分を捨てる:自己中心的な欲、自我欲、を捨て去る。 
  •     
  • 自分の十字架を負い。: キリストのゆえに苦しむ苦しみ方、人に代わってもらうことができない 
  •     
  •  自分のいのち・・・人はいたい何を差し出すことができるでしょう:何事にも代えがたい いのちの尊さ、 永遠のいのちまで含めた いのちの大切さを意味する。
  •     
  • → (マルコ9:1)の解釈には種々あるが、牧師は、38節からのつづきで、苦しみのなかに神の登場を見る イエスが不在となった後、40年を経てエルサレムが無くなることに対応している、と解釈する。 苦しみを通してでなければ神の国を見ることはできない。  
  • 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに 生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった 神の御子を信ずる信仰によっているのです。私は神の恵みを無にはしません。 もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。(ガラテヤ2:20)


----------今週のみことば----------

-------------まとめ----------
  • イエス様を救い主として認め、バプテスマで宣言し、クリスチャンとして告白すること、それが代々受け継がれて実を結ぶことが望ましいが、現実、バプテスマで告白しても教会から離れる人が多い。残っていれば、教会も多くの人でいっぱいになることでしょう、 聖書にもデマス(2テモテ4:10)の記録がある。 自己中心、自我、欲の自分を捨て、キリストに返る道を選ばなければ、永遠のいのちを得ることはできない。 現代は、さまざまな宗教と、信仰を持つ人持たない人がともに生活している世の中だが、時が来れば、羊とやぎの例え(マタイ25:32ー) のように分かたれることになる。

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賛美聖歌582 神の御子にますイエス
祝祷
報告

hana


【報告・連絡】:
    *本日の礼拝説教は、渋谷敬一師が奉仕してくださいます。
   
   




 私たちは私たちの信仰を次のように告白します。

《主の祈り》
天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。
御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。
私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。私たちの負い目をお赦しください。
私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦しました。
私たちを試みに合わせないで、悪からお救いください。
国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン
 
 

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